吉田松陰と松陰神社

信明コーポはバスや東急世田谷線の松陰神社前にありますが、「松陰神社前」という駅からお分かりいただけるように駅の近くには松陰神社という大変立派な神社があります。松陰神社付近にお住まいの方や世田谷区にお住いの方であれば、ほとんどの方がご存知だと思いますが、この松陰神社には幕末に名を馳せた「吉田松陰先生(※敬意を表して、以下吉田松陰と略させていただきます。)」が祀られている神社です。吉田松陰や松陰神社についての余談になりますが、吉田松陰は2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」でも取り上げられ(直接取り上げられたわけではありませんが、井上真央さんが演じる吉田松陰の妹の「文」を主に取り上げられた作品)同時にドラマの影響か松陰神社への関心も世間から少しばかり注目度が増した気がします。
信明コーポの近隣にお住いの方や、世田谷や都内のお住いの方も松陰神社という名前は耳にしたことが多いと思いますし、吉田松陰が祀れている神社だということは、なんとなくご存じの方も多いのではないでしょうか。その逆に、ではなぜ世田谷の松陰神社にそもそも吉田松陰が祀られているかご存知の方は意外と少ないのではないかと思います。このコラムを書いている筆者も大変恥ずかしいのですが、長いこと松陰神社に住んでいますが、いざ「松陰神社と吉田松陰の関係性を教えて下さい。」と尋ねられても中々詳しく説明することは難しい状態です。なので、今回は簡単に松陰神社と吉田松陰の由縁について簡単に説明していきたいと思います。
歴史に詳しい方であればご存知だと思いますが、吉田松陰は東京(当時は江戸)や世田谷(当時は江戸荏原群)で生まれ育った方ではありません。吉田松陰の生まれは山口県の萩であり、吉田松陰が現在の世田谷区にある松陰神社に祀られるきっかけとなったのは、吉田松陰が「安政の大獄」により亡くなった死後のことなのです。吉田松陰が亡くなったとされるのが、多くの文献に掲載がある安政6年(1859年)10月27日朝で、30歳という若さで江戸伝馬町(現在の東京メトロ日比谷線の小伝馬町辺り)の刑場で処罰されたのです。
亡骸は当初南千住小塚原の回向院祀られていましたが、おそよ四年後、吉田松陰が開いた有名な松下村塾の門下生であった高杉晋作・後の内閣総理大臣となる伊藤博文等によって長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸(現在の世田谷区若林)に改葬されてことが現在の世田谷区にある松陰神社に祀られるきっかけなのです。(吉田松陰は長州藩であり幼少期から毛利家と深いつながりがあったため)
また、実際に関わった期間は短かったかもしれませんが、後の内閣総理大臣を輩出する程の文豪を松下村塾で集め育成した吉田松陰の功績からすれば当然ですが、吉田松陰が生まれ育った山口県萩市にも松陰神社は存在します。こちらは明治40年(1907年)に松下村塾で学び、維新後島根県令などを務めた斎藤栄蔵(堺二郎)が明治23年(1890年)に松下村塾の保存会を発足させ、祠を建てたとされています。
ここまでの説明の通り、吉田松陰と世田谷のつながりは生まれ育った山口県萩市と比べると時間的にはとても短い気はします。そもそも30歳という若さでこの世を去ったので限られた時間ではありましたが、もし吉田松陰がもっと長生きをされていたのであれば、世田谷という街にもっと関わりがあっただと思います。ただ吉田松陰のポリシーは「曇りのない至誠を体現すること」だったので、幕末という壮絶な時代に長生きをしたいという考え自体、吉田松陰のポリシーに反していたので、そのようなことは決して無かったんだと思います。しかし、時間的な物差しではなく吉田松陰という人物が関わった人物や物語には、この世田谷という場所はきってもきれない場所なんだと感じられます。
そのような背景を知った後に松陰神社を訪れてみると、きっと感慨深い想いになるのはないでしょうか。
世田谷にある松陰神社に訪れたことがある方は、是非山口県萩市の松陰神社、その逆に山口県萩市の松陰神社に訪れたことがある方は是非世田谷の松陰神社を旅先の選択肢として一度旅行してみてはいかがでしょうか。
(世田谷松陰神社公式サイトURL:http://www.shoinjinja.org/
(萩松陰神社公式サイトURL:http://www.shoin-jinja.jp/