吉田松陰が生きた時代
世田谷区の松陰神社にある信明コーポでは、前回「松陰神社と吉田松陰」についてのコラムを掲載させていただき、松陰神社と吉田松陰の関係性を簡単にご紹介しましたが、今回は松陰神社という町に所縁がる吉田松陰が生きていた時代についてのコラムを掲載したいと思います。
吉田松陰は30歳という若さでこの世を去ったとされていますが、彼が生きた時代はまさに激闘の時代でした。なぜ激闘の時代だったというと、吉田松陰が生まれた時代は江戸幕府が終焉しようとする幕末の時期とちょうど重なるからです。
また、吉田松陰が生きた時代でよく知られている歴史的なキーワードは「ペリー来航」「安政の大獄」「桜田門外の変」の3つだと思います。その3つのキーワードについて順々に説明したいと思います。
215年続いた鎖国政策の終焉。黒船(ペリー)襲来で日本に激震が走る
現代社会では考えられないことですが吉田松陰の生まれた時代、徳川家康によって開かれた江戸幕府は、鎖国政策によって諸外国との親交を大きく制限した結果、200年近く外敵の侵入を受けることなく平穏な日々を過ごしていました。
その平穏だった日々が瞬く間に崩れ去ってしまった原因が嘉永6年(1853年)マシュー・ペリーの乗ったアメリカ艦隊が来航したことでした。浦賀沖に現れた4隻の黒船は、蒸気機関で動き、日本の旧式大砲よりも遥かに優れた大砲を搭載していました。鎖国という形で、それまでオラン以外の西洋文明との交流を行ってこなかった日本にとって、突然現れた新興国が圧倒的な武力を背景に開国を迫ってきたことで大きく揺れたのでした。
結局、初めてペリーが江戸に降り立った際には、アメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡すことと情報収集が目的であったため大きな行動を起こなかったが、その1年後、再度訪れたペリーとの間で「日米和親条約」を締結したのでした。その後もイギリスやロシアとも開港し、鎖国体制は一気に消滅したのでした。
しかし、国内ではこの開国を巡り、あくまでも外国人の入国を許さず武力で追い払おうとする「攘夷派」と、開国して西洋文化を学部べきという「開国派」に分裂してしまいます。このことが影響し、内政面でも、やはり外国人の圧力に屈するような幕府を見限り、天皇に政権を執ってもらおうという「尊皇派」と、あくまで国の政治は幕府が行うべきという「佐幕派」に分かれてしました。更に幕府の存続自体を巡っても、武力によって幕府を倒そうという「倒幕派」と、幕府と朝廷が力を合わせて外敵に立ち向かう「公武合体派」に分かれ、それぞれの主張が入り乱れることとなってしまったのです。
将軍の後継者争いの影響で更に外国との対応が複雑化
13第将軍家定の後継者候補として有力視されてた人物は二名おりました。家定の従兄弟で紀州藩主・徳川慶福と、水戸藩主・徳川斉昭の子で一橋家を継いだ一橋慶喜です。慶福を支持する彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保らを「南紀派」慶喜を支持する父の斉昭、薩摩藩主・島津斉彬らを「一橋派」と言いました。そして南紀派の主張は先程説明した内政面では佐幕、外国に対しては開国というものでした。一方の一橋派は、勢いのある雄藩同盟による政権運営と、島津斉彬等の開明的な大名を除いては攘夷を目指しており、「南紀派」と「一橋派」は激しく対立していたのでした。
そこで、安政5年(1859年)に大老となった井伊直弼が強権を発動したのです。慶福を徳川家茂として14第将軍に定め、通商を認めないという外国嫌いな孝明天皇の意向を無視して「日米修好通商条約」を締結してしまったのでした。大老は将軍に次ぐ、権限を持ち、それまでであれば対立論等起きていませんでした。しかし、外交への対応を巡って諸藩に意見を求め、諸大名の発言権が高まったことから、井伊直弼の独走に批判が相次いだのでした。そして、井伊直弼は、この批判に対して弾圧で臨み、徳川斉昭・一橋慶喜親子を政権から排除し、尊皇派を次々と粛清したのです。長州で松下村塾を開き攘夷論を提唱していた吉田松陰もこの時期に処刑されてしまいます。
井伊直弼が行った一連の粛清弾圧は「安政の大獄」と呼ばれ、安政6年(1859年)まで続きました。
沈みゆく幕府と維新への波
「安政の大獄」から1年後の翌年、度重なる弾圧に耐えかねた水戸藩・薩摩藩の浪士が決起し、江戸城登城途中にある桜田門外にて井伊直弼を襲撃し暗殺してしまったのです。(これが皆さんご存じの「桜田門外の変」と呼ばれる事件のことです。)
やがて、尊王攘夷運動の高まりと共に攘夷派の志士による「天誅」よ呼ばれる暗殺テロが横行するようになってしまいます。幕府側も京都見廻組や新選組などの現代社会の警察のような組織を新設し、これらの行為を取り締まり、幕府側と攘夷側の対立は激化する一途をたどることになってしますのです。
幕府は皇女和宮と将軍家茂の婚姻によって公武合体の強化を図るも、維新の波をもはや止めることができず、やがて武力による倒幕運動へと移り進んでいくのです。そして、この攘夷派の中心となったのが、かつて吉田松陰が開いた松下村塾の教え子や長州藩の志士たちであったのです。
このように、吉田松陰はこの激闘の時代に生き、そして多大な影響力をもった人物だったことが窺えます。もしもそんな吉田松陰が仮に現在の日本の情勢を見ることができたのであれば、教え子達が発展させた日本をどのように解釈するのか気になるところですね。
また、幕末の内容は様々な解釈があり、ドラマやアニメ等多角的に映像化されています。幕末に限らず、歴史について再度振り返ってみたり勉強してみるとそういった映像の一つ一つに今までと異なった視点で内容が捉えられるようになるので、より興味深く面白い視点で楽しむことができるかもしれません。
今回は吉田松陰が生きた時代に起きた事件や背景を簡単にご紹介しましたが、、今後は吉田松陰や吉田松陰の教え子たちについてもう少し掘り下げてコラムを掲載できればと考えております。ご興味がありましたら、今後そちらのコラムも是非ご覧になっていただければ幸いです。